火曜日, 6月 13, 2006

マルクスとケインズは「何を」見たのか?-------------------------------------それは不均衡であり非対象性であり等価交換である。小林秀雄は、芸術家は最初に虚無を所有する必要があると言ったが、小林秀雄の言う「虚無」こそが、マルクスやケインズが見たものである。言い換えれば、「虚無よりの創造」が必要なのは、芸術家ばかりではない。科学者も宗教家も、そして経済学者も同じだろう。つまり既存の理論や方法論が無効であり、なんの役に立たない世界、それがマルクスやケインズが見た経済学的な虚無である。それが、不均衡であり非対象性であり不等価交換の「虚無」である。マルクスもケインズもその経済学的な虚無の発見に驚愕し、そしてその「見神体験」を軸に「経済学批判」を展開して行くのである。そしてそれが結果的に「マルクス経済学」「ケインズ経済学」として体系化されていくのである。マルクスはマルクス主義者ではなかった、と言う言い方がある。これはデカルトはデカルト主義者ではなかったという言い方と同じである。しかしこの微妙な差異は決して単純ではない。言い換えれば、多くの経済学者や経済ジャーナリストは、マルクス主義者やケインズ主義者ではありえても、あるいはハイエク主義者やフリードマン主義者でありえても、マルクスやケインズ、あるいはハイエクやフリードマンではありえない。何故か。それは、「虚無よりの創造」という「野生の思考」(レヴィ・ストロース)と無縁だからである。マルクスはマルクス主義を信奉し、その理論を学習して、その理論の普及に努めた人ではない。マルクスは「虚無」を凝視し、そこから理論的な思考を実践したのである。マルクス主義という理論を通して現実を見たのではない。マルクスの言う「唯物論思考」とはそういう理論なき思考実践のことである。言い換えればマルクスの経済学とはそういう思考過程そのもののことである。マルクスは、ルーゲへの手紙の中で、《ここに真理がある。ここに膝まずけと私は言いはしない。私はただそれを示すだけだ…》と言っている。マルクスの「資本論」は一つの理論体系として成立しているのではなく、資本主義経済という奇妙な経済現象とは何かを問い続ける思考過程の書である。マルクス経済学という理論体系を構築していくのは、実はマルクスではなくエンゲルスであり、のちのマルクス主義者たちである。キリスト教を体系化したのがイエス・キリストではなく、ペテロやパウロであるように。むろん、同じことがケインズやハイエクやフリードマンにも言えるだろう。しかし、わわれわに理解できないのはこの、「マルクスとマルクス主義とは異なる」という差異である。わわれわれは、マルクスをマルクス主義という理論からしか考えることができない。最初に戻れば、マルクスが見たもの、あるいはマルクスが驚いたものは、「商品」という物であった。したがってマルクスは「資本論」を商品の分析から始めるのである。しかし、多くのマルクス主義者たちは、そこを飛ばして読み始める。何故か。マルクス主義者たちは「商品という虚無」を見ようとせずに、マルクス主義という「理論」を見ようとしているからだ。それは、マルクスやマルクス主義を批判する者たちも同様である。

0 件のコメント: