木曜日, 6月 01, 2006

数字と数式が隠蔽するルーカス革命の哲学的限界-------------------------------------                 30年前のルーカス批判(革命)は未だに有効なのか。某経済学者によると、アメリカの大学院教育やアカデミズムではいまだに圧倒的に有効らしい。≪アメリカのアカデミズムにおいて主流の立場にある新古典派マクロ経済理論は、基本的に完全雇用状態を前提としているため、著者が問題とするような失業や企業の倒産を扱えないからである。このようなマクロ経済学が主流になったのは、ケインズ理論における「ミクロ的基礎」の欠如のためである。政策上の効果についてもケインズ派は、およそ30年も前の「ルーカス批判」を覆すことができずにいる。そうしたわけで、アメリカの大学院教育では、ケインズ理論は過去の遺物として扱われがちになっているし、教えられない場合すらもある。≫おそらくその原因は、ルーカス批判、ないしはルーカス革命の経済学が、アメリカという風土に合った経済哲学であり、科学主義的な方法論だからである。私の考えでは、ルーカス批判がアカデミズムを制覇した理由は、必ずしもその理論の正当性ではなく、様々な高等数学を援用して数式や数字を駆使するその技法にある。科学主義や数学主義とも言うべきその悪しきスタイルはしばしば学問や科学の名のもとに人間の頭脳を一時的に幻惑する。一種のモダニズムである。たとえば、20世紀の哲学界を一時的に席巻した科学哲学や論理実証主義の台頭の場合にも、「科学」「記号論理学」「数学」を武器に、「ヘーゲル哲学の迷妄」が批判され、罵倒され、嘲笑された。数字や記号を使わない哲学は「過去の遺物」だというわけである。しかし言うまでもなく、哲学は、数学や科学の「基礎」や「前提」を問う学問である。数学や科学を道具として使えば、簡単に批判できるというのは大きな錯覚である。たとえば、近代哲学の父と言われるデカルトはそもそも数学者であったし、カント哲学はニュートン物理学の哲学的基礎付けである。経済学の世界でも、数字や数式の前に哲学や形而上学が忘れられ、隠蔽される。ルーカス批判の哲学的基礎、ないしは哲学的背景(あるいは人間存在論…)という問題である。彼等の議論は、数字や数式を多用するので、門外漢の素人には理解できないかのような錯覚を与える。むろん、錯覚である。そのような場合、多用される数字や数式はしばしば幼稚な哲学や形而上学を隠蔽する小道具にすぎない。その数式や数字を取り去れば意外に単純素朴な哲学的ドグマが露呈してくるはずである。したがって、数学や数式の世界に引き摺りこまれたらおしまいである。無用な数字と数式に幻惑されて、失業と雇用という経済学にとっての根本的な問題は雲散霧消する。それがルーカス経済学であり、アメリカ経済学の主流派である。では、ルーカス革命の実態は如何なるものなのか。その核心にある哲学とは何か。たとえば、ルーカス批判の理論の一つは、「経済学者たちの代替的政策提案に対する評価は、人々の適応的期待とその影響による行動を考える必要がある」という理論である。要約すれば、ルーカス批判のポイントは、「ケインズ的な従来の経済政策においては標準的なマクロ経済モデルに依存するだけで、人々の適応的期待とその影響による行動を考慮していない」ということになる。では、「適応的期待とその影響」とは何か。例えば,「近々インフレが起きる」という期待が形成されると仮定しみる。すると,労働者は、賃金交渉の場で、「少なくともインフレの分だけ給料を上げてくれ」という要求が出すだろう。次に、経営者側は、賃金の上昇は企業にとってはコストの増加につながるから,企業は製品価格を上げようとする。その結果,いろいろな製品の価格が上昇して実際にインフレが生じることになる。このように,期待形成はいろいろな経路を通って実現することが多い。したがって、「政府は、このような期待の効果を十分に考慮した上で政策を行う必要がある」というわけだ。しかし、ケインズ経済学では、この「期待形成とその影響」が無視されている。これが「ルーカス批判」の核心命題である。 むろん、ケインズ経済学でも、「期待」という問題を完全に無視しているわけではない。しかしケインズ経済学が想定している「期待」は、過去の値を予測値として使う「静学的期待」であるのに対して、ルーカスの「期待」は、現在入手できるあらゆる情報を使って予測を行う「合理的期待」である。「ケインズ的静態的期待」と「ルーカス的合理的期待」を区別するところにルーカス批判の核心がある。

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