土曜日, 6月 24, 2006

山崎行太郎コーナー
「小さな政府」主義の危険な落とし穴ーリバータリアニズムからアナーキズムへー
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自民党小泉一派が主張する「小さな政府」とは、言うまでもなく何もしない政府
(笑)…のことである。そしてその行きつく先は政府そのものが必要ないと言う
無政府主義(アナーキズム)である。

むろん、これは極端な議論だが、「小さな政府」という美しい言葉がその背後に
無政府主義的な国家解体への思想的可能性を秘めていることは憶えておいてよい。
おそらく、今回の衆議院選挙で小泉改革を熱狂的に支持した国民の多くは、「公
務員を減らせ」「官から民へ」「利権構造の打破」というプロパガンダ
の喧騒の中で、無意識のうちに国家解体の可能性を夢想していたはずである。

さて、小さな政府論の多くが、実はブキャナンらの「公共選択論学派」の思想と
理論からの受け売りと切り売りであり、その理論的根拠も学問的背景も知らずに、
絶対的真理のごとく盲信し、思考停止状態で政権運営に当たっているのが小泉政
府であると前回、書いたが、アメリカで「小さな政府論」を理論的に主張するグ
ループがもう一つある。これも冷戦勝利後に急速に勢いを増しているグルー
プだが、リバータリアニズムとかリバータリアンと呼ばれる一派である。この
リバータリアニズムという思想潮流も、社会主義批判という側面を強く持つ
が故に、保守派に安易に受け入れられやすい。

その思想的源流をたどれば、「自由市場主義」のオーストリア学派のミーゼスや
ハイエクは言うまでもなく、「市場」というものを発見し、経済学という学問を
打ち立てたアダム・スミスにまでたどり着く。

しかし、ここで言うリバータリアニズムとは、厳密に言えば最近のアメリカ合衆
国を中心として発達し、大きな影響力を持つようになった思想であって、「個人
主義」「個人の諸権利」「法の支配」「制限された政府」「完全自由市場」など
を強く主張する。サッチャー革命、レーガン革命以後、アメリカを中心に民主主
義国家の経営理念のひとつとして根強い支持を持つと言われている。

政治思想的には、国家の介入を最小限に減らし、書く個人の自由を尊重するとい
う思想であり、経済思想的には、政府の規制を極力避け、民間による経済活動の
自由を拡大するためにも規制緩和が必要であるとするものだ。

アメリカの思想的植民地と化している現在の日本で、この政治思想と経済思想が
影響力を持たないはずがない。特に竹中平蔵に洗脳されている小泉執行部は…。
要するに「小さな政府」主義とは、絶対的な真理でもなんでもない。(続く)

木曜日, 6月 15, 2006

ブキャナン「公共選択論学派」の「小さな政府論」の「反ケインズ主義
的謀略」  
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今までとおり、まだ「反ケインズ主義」の経済学的な理論的根拠として
の「ルーカス
問題」の分析と解明を続けていくつもりだが、たまたま衆院選挙に大勝
した小泉首相
の「所信表明演説」を読む機会があったので、ちょっと脇道に逸れるこ
とになるかも
しれないが、と言っても実は問題そのものはまったく重複しているのだ
が、いわゆる
「公共選択論学派」を率いるブキャナンの「小さな政府論」にふれてみ
たい。

選挙キャンペーン中から所信表明演説へと続けて、小泉や竹中が「馬鹿
の一つ覚え
」のように繰り返し繰り返し唱えている「小さな政府論」だが、それが
「受け売り」
であることは言うまでもないが、その受け売りの元ネタの張本人とも言
うべき経済学
者がブキャナンである。

それを知れば、小泉・竹中一派が執拗に反復する「小さな政府論」の裏
と表が見えて
くるはずである。要するに、今やそれを聞くと誰もが黙ってしまう「小
さな政府論」
も、現代世界の共通の常識でも、経済学的な真理でもなく、ある特定の
政治グループ、
あるいはある特定の経済学者グループが、戦略的に信奉し、固執する一
種の政治経済
学的イデオロギーにすぎない。小泉・竹中一派はそれに洗脳されている
だけである。

さて、「小さな政府」の根拠は何か。なぜ、大きな政府ではなく小さな
政府でなければ
ならないのか。小さな政府になれば、民間活力が増大し、社会はダイナ
ミックな発展
過程へと突き進んでいくというが、それは本当なのか。

小泉首相の所信表明演説草稿には、こう書いてある。
《私は、このような構造改革を断行し、政府の規模を大胆に縮減してま
いります。》
《少子高齢化が進むわが国は、本格的な人口減少社会を目前に控えてお
り、子や孫の
世代に負担を先送りすることなく、国民一人一人が豊かな生活を送るこ
とができる活
力ある社会を構築していかなければなりません。》
《「公務員を減らしなさい」「行政改革を断行しなさい」「民間にでき
ることは民間に」
この基本方針には多くの人が賛成するのに、なぜ、郵政事業だけは公務
員でなければ
できないのか、民間人にまかせられないのでしょうか。》

もう聞き飽きた言葉の羅列だが、実はこのワンパターンの言葉の羅列の
中に基調低音
として流れているものこそ、小泉・竹中が信奉しているらしい「小さな
政府論」のイ
デオロギーなのである。無論、そのイデオロギーの理論的教祖の一人が
ブキャナンで
ある。

では、フリードマン、ルーカスと並んで、「反ケインズ主義」を標榜す
るアメリカ新古
典派の経済学者ジェームス・ブキャナンの経済思想とはどういうものだ
ろうか。公共
財の供給・消費は無駄で不合理な浪費とならざるをえない、したがって
社会はできる
だけ公共財を少なくするべきであり、その結果当然の帰結として政府も
「小さな政府」
を目指すべきである・・・というものだ。

このブキャナン流の「小さな政府論」が理論的なターゲットにしている
のは、言うま
でもなくケインズであり、ケインズ主義的な「総需要拡大論」である。
その論拠も、
ケインズ主義的な総需要拡大政策の実行のためには、財源として国債発
行が必要であ
り、その国債発行額が累積し、やがて子孫の世代に大きな負担を残すこ
とになる・・・
だから、ケインズ主義的な総需要拡大はやめるべきだ・・・というもの
だ。

小泉首相は、所信表明演説で、こう言っている、
《この結果、日本経済は、不良債権の処理目標を実現し、政府の財政出
動に頼ること
なく、民間主導の景気回復への道を歩み始めました。》
ここで小泉が言っている、「政府の財政出動」に頼ることなく、「民間
主導の景気回復」
という言葉にも、小泉・竹中の「受け売りの経済思想」が露呈してい
る。「反ケインズ
主義」である。

ところで、小泉首相は、銀行への莫大な公的資金の注入も「民間主導」
だったと言う
のだろうか。今、日本経済が景気回復への道を歩み始めたと言うのであ
れば、それこ
そ政府に「オンブにダッコ」の景気回復ではないのか。言い換えれば、
政府の保護と
恩恵に預かった企業のみが景気回復しているだけではないのか。財政再
建どころか財
政赤字がふくらむのは当然なのである。「受け売り」と「思考停止」の
「小さな政府論」
という「責任放棄」の経済哲学で、財政再建などできるわけがない。最
新経済学とは言
えども、まず自分の頭で考えることから始めるべきではないのか。

火曜日, 6月 13, 2006

マルクスとケインズは「何を」見たのか?-------------------------------------それは不均衡であり非対象性であり等価交換である。小林秀雄は、芸術家は最初に虚無を所有する必要があると言ったが、小林秀雄の言う「虚無」こそが、マルクスやケインズが見たものである。言い換えれば、「虚無よりの創造」が必要なのは、芸術家ばかりではない。科学者も宗教家も、そして経済学者も同じだろう。つまり既存の理論や方法論が無効であり、なんの役に立たない世界、それがマルクスやケインズが見た経済学的な虚無である。それが、不均衡であり非対象性であり不等価交換の「虚無」である。マルクスもケインズもその経済学的な虚無の発見に驚愕し、そしてその「見神体験」を軸に「経済学批判」を展開して行くのである。そしてそれが結果的に「マルクス経済学」「ケインズ経済学」として体系化されていくのである。マルクスはマルクス主義者ではなかった、と言う言い方がある。これはデカルトはデカルト主義者ではなかったという言い方と同じである。しかしこの微妙な差異は決して単純ではない。言い換えれば、多くの経済学者や経済ジャーナリストは、マルクス主義者やケインズ主義者ではありえても、あるいはハイエク主義者やフリードマン主義者でありえても、マルクスやケインズ、あるいはハイエクやフリードマンではありえない。何故か。それは、「虚無よりの創造」という「野生の思考」(レヴィ・ストロース)と無縁だからである。マルクスはマルクス主義を信奉し、その理論を学習して、その理論の普及に努めた人ではない。マルクスは「虚無」を凝視し、そこから理論的な思考を実践したのである。マルクス主義という理論を通して現実を見たのではない。マルクスの言う「唯物論思考」とはそういう理論なき思考実践のことである。言い換えればマルクスの経済学とはそういう思考過程そのもののことである。マルクスは、ルーゲへの手紙の中で、《ここに真理がある。ここに膝まずけと私は言いはしない。私はただそれを示すだけだ…》と言っている。マルクスの「資本論」は一つの理論体系として成立しているのではなく、資本主義経済という奇妙な経済現象とは何かを問い続ける思考過程の書である。マルクス経済学という理論体系を構築していくのは、実はマルクスではなくエンゲルスであり、のちのマルクス主義者たちである。キリスト教を体系化したのがイエス・キリストではなく、ペテロやパウロであるように。むろん、同じことがケインズやハイエクやフリードマンにも言えるだろう。しかし、わわれわに理解できないのはこの、「マルクスとマルクス主義とは異なる」という差異である。わわれわれは、マルクスをマルクス主義という理論からしか考えることができない。最初に戻れば、マルクスが見たもの、あるいはマルクスが驚いたものは、「商品」という物であった。したがってマルクスは「資本論」を商品の分析から始めるのである。しかし、多くのマルクス主義者たちは、そこを飛ばして読み始める。何故か。マルクス主義者たちは「商品という虚無」を見ようとせずに、マルクス主義という「理論」を見ようとしているからだ。それは、マルクスやマルクス主義を批判する者たちも同様である。

日曜日, 6月 11, 2006

「歳出削減」と「大増税」しかない小泉・竹中改革の「貧困の哲学」-------------------------------------小泉改造内閣は、財政赤字解消を目指して財務省主導で大増税路線を突進中と思いきや、なんとあの竹中平蔵新総務大臣を筆頭に、「増税より歳出削減が先だ…」というキャンペーンを張り出した。私に言わせれば、小泉・小泉・竹中改革においては歳出カットと大増税は決して対立するものではない。当然のことだが、大増税を回避すれば、すくなくとも小泉内閣では、ますます財政赤字解消など不可能だろう。歳出カットだけで財政再建が可能だと考えている人は一人もいないだろう。とすれば、「反増税キャンペーン」は、単なる来るべき大増税のための準備作業、あるいは国民向けの情報操作(地ならし)にすぎないのか。おそらくそうに違いない。「増税より歳出カットが先だ…」と叫びつつ、その裏で「大増税もやむなし」という方向へマスコミや国民を誘導していくのだろう。もしそうだとすれば、それはまぎれもなく、小泉・竹中改革が失敗し破綻したことの証明になるはずだが…。しかし、マスコミには、これからは、「小泉改革の総仕上げ…」などというピントはずれの妄言が飛び交っている。そもそも小泉・竹中改革が成功し、「これから最後の仕上げだ」と言うならば、景気回復による税収が増え、大増税など必要ないはずではないか。なぜ、大増税が必要なのか。それは、小泉・竹中改革で、財政赤字が減少するどころか、ますます拡大しているからである。ちなみに、もし歳出削減や公務員削減を強行すれば、目論見とは逆にますます財政赤字は拡大するだろう。では、問題は、どこにあるか。それは、マスコミに蔓延している小泉・竹中改革は、「財政出動なき景気回復」に成功したという間違った小泉構造改革賛美論にある。はたして日本経済は、小泉構造改革の成果によって、今までに例のない「財政出動なき景気回復」にたどり着いたのか。不思議なのは、小泉・竹中一派は、株価が下がると「株価の下落に一喜一憂せずと株価の下落は構造改革とは無縁だと言いながら、株価が上昇し景気回復の兆しが見え始めると、いとも簡単に前言を翻し、「株価上昇も景気回復も小泉構造改革の成果だ…」と言いはじめる事である。むろん、政治家の発言なんてそんなものでもかまわないが、経済学者や経済ジャーナリストまでがそれに一斉に唱和することである。あげくのはてには、「財政出動による景気回復」を唱えていたケインズ派経済学者たちに向かって、「すでに財政出動なき小泉改革の結果は出ているではないか、なんと抗弁するのか、その言い訳が聞きたい」とのたまう経済ジャーナリストまで現れる始末だ。喜劇と言うしかない。今や歳出削減と大増税しかありえない状況に追い込まれつつある竹中の経済学は、経済学的パラドックスと言うものが理解できない経済学である。竹中の頭にあるのは、足したり引いたりするしか能のない経済学である。少なくともマルクスとケインズ、「経済学」ではなく「経済学批判」で明らかにしようとした問題は、そういう「個人家計」レベルの竹中式「節約と貯金の経済学」の問題ではない。20世紀最大の哲学者と言われるハイデッガーは、「存在的(オンティシュ)思考」と「存在論的(オントロギッシュ)思考」を区別したが、マルクスやケインズが、「経済学批判」において展開した思考は後者に属するものだった。「存在的思考」が日常的、常識的、科学主義的思考だとすれば、「存在論的思考」は、非日常的、神秘的、芸術的、誤解を恐れずに言えば宗教的思考であった。むろん、存在論的思考の上に成り立っているのが存在的思考である。このハイデッガー的な「存在論的差異」が理解できるかどうかは、知識や体験の問題ではなく、センスや才能の問題である。マルクスやケインズには、そういうセンスと才能があった。彼等が提起した問題は、われわれの常識や世界観と対立するかもしれない。だが、彼等の思考の成果は、われわれに見えない「深い真実」を伝えている。古典と言われる所以である。しかるに、現代日本の政治・経済界に蔓延している思考は、通俗科学的、常識的、大衆小説的な思考である。「存在論的思考」など、反科学的で無用のものだと思っている。小泉が、大衆歴史小説の愛読者であることは、それを象徴している。竹中は…。言わぬが花というものだろう。

水曜日, 6月 07, 2006

山崎行太郎  木村剛の『日本資本主義の哲学』に「哲学」なし       -------------------------------------    ちょつと回り道をしたので、ここでふたたび、「マルクスとケインズ」という本来のテーマに戻ることにしよう。そこで「マルクスとケインズ」の問題へ立ち戻る手がかりとして、たまたま先日、「ライブドア堀江社長逮捕」のニュースが流れた日に、浦和の古書店の店頭で、たった100円だったので買った木村剛の『日本資本主義の哲学』という立派すぎるタイトルの「駄本」をとりあげることにしたい。この本を買ったのは、わずか100円だったから買ったというだけで、別に必要があって買ったわけではないが、しかし考えてみると、「ホリエモン騒動」の「影の真犯人」(笑)の一人、あるいは今風に言い換えれば、「ライブドア三兄弟」の一人が木村剛である、と小生は睨んでいるから、絶好のタイミングでの買い物だったということになるかもしれない。つまり、「マルクスとケインズ」を引き合いに出しながら、小泉・竹中路線の経済学的無知と無策を批判することを主テーマとする本稿で、「小泉改革のスポークスマン」の一人としての木村剛を取り上げることは、必ずしもまとはずれではなかろうというわけなのだ。ちなみに私見によると、「ホリエモン騒動」の他の二人の真犯人は、言うまでもなく竹中平蔵と世耕弘成である。さて、竹中と世耕は、昨夏、衆院選挙に「反小泉」の急先鋒・亀井静香への「刺客」として突然、立候補したホリエモンの選挙応援演説で、わざわざ選挙区にまで乗り込んだ上に、竹中にいたっては、「郵政民営化と小さな政府作りは、小泉純一郎とホリエモンと竹中平蔵が、スクラムを組んでやり遂げます…」(?)と、ホリエモンの手を取って叫んだぐらいだから、そのホリエモンや六本木ヒルズ周辺に屯する「若手IT企業家」たちとの癒着振りは、今さら指摘するまでもなく明らかだが、木村剛の場合は、その関係があまり目立たないように思われる。しかし、私は、テレビの経済番組等にしばしば登場して、「経済政策」や「金融政策」に精通しているかのような顔をして、小泉・竹中路線の経済改革を擁護し続けてきた木村剛の、「ホリエモン騒動」に象徴される小泉・竹中路線の日本的経済システムの解体と改革に対する「政治責任」は小さくないと思っている。たとえば、竹中平蔵主導の不良債権処理の過程で、それに連動するかのように「30社リスト」なるものを作り、マスコミを通じて「倒産促進」を煽ったのは木村剛の役割が何であったかを象徴している。では、木村の経済理論、ないしは経済思想なるものはどういうものなのか。すべてを知り尽くしたかのように能弁に語りまくる木村だが、はたして木村はマルクス経済学やケインズ経済学をどう読み、どう理解しているのか。東大経済学部卒で、日銀出身が売り物の木村剛に、はたして語れるほどの、日本資本主義に関する「哲学」があるのか。結論を先に言ってしまえば、木村の『日本資本主義の哲学』は、実に幼稚な書物である。古本屋のオヤジの目に狂いはない。たしかに100円の値打ちしかない本である。と言うのは冗談だが、木村の経済理論と経済思想の本質は、中小企業のオツサンたち向けの「人生論」レベルである。語るべき経済理論や経済思想など何もない。すべては寄せ集めのパッチワーク経済学である。この本は、エンロンとワールドコムの破綻の話から始まる。エンロンとワールドコムの破綻の原因は、木村的に言えば、「企業家のモラル」の問題であるらしい。米国資本主義にも「悪い奴」がたまにはいるというわけだ。当然だろうが、木村は、それを米国資本主義の根本的な欠陥や危機の問題とは認識していない。さて、小泉・竹中路線を追認する木村の「構造改革」理論の眼目は、「金融解体」と「土建屋解体」である。そしてその解体論の思想的裏づけは、ルールとモラルである。何故、日本の金融システムを改革しなければならないのか。何故、不良債権を抱え込んだ土建業は倒産させなければならないのか。改革や解体の後日本経済はどうなるのか。というような問題に対する経済学的、哲学的解明はまつたくない。木村が提示する理論は、企業家のモラルにすぎない。「まじめに頑張れば何でも出来る…」という一種の「根性論」である。つまり木村の構造改革とは、米国資本主義でもグローバルスタンダードでもなく、資本主義の公平なルールにしたがって、「不良企業は退場しろ」というだけである。負債を抱えた倒産寸前の大企業を、政府や銀行がいつまでも保護し支援するところに現代日本資本主義の欠陥があり、そこから企業家のモラルハザードが起き、日本資本主義の健全な機能が麻痺するというわけだ。木村の分析には、「倒産や解体の後の日本経済がどうなるか…」というような本質的な経済学的問題意識はない。たとえば、エンロンとワールドコム問題に関する木村の総括は、こんなものである。「米国資本主義の凄さは、危機に際しての自浄作用にある。資本主義の暴走に対する制御装置が機動的に働くのだ。ところが、日本資本主義にこの作用は見られない。制御装置はないようにも見える。」そして次のように続ける。「そもそも、日本だったら、あれだけ広範な政治家にカネをばら撒いたエンロンは破綻していなかったのではないか。まず間違いなく、アーサー・アンダーセンが崩壊することはなかっただろう。ワールドコムなど官民挙げて先送りして揉み消していたに違いない。少なくとも、内部告発を契機に粉飾が発覚することはなかつたと断言できる。」今から、この木村の「日本資本主義の哲学」の分析を読み直すと、木村の分析が喜劇以外のなにものでもないことがわかる。皮肉にも、木村が内紛の末に実質的に社長(取締役?)を勤める「日本振興銀行」の不祥事(不正融資)が発覚し、これまた木村とも無縁ではないはずの、つまり木村的に言えば「不良企業が退場した」後に登場してきた「新興IT企業」、要するにホリエモンの「ライブドア」が東京地検の強制捜査を受け、「株価操作」や「粉飾決算」で破綻寸前に追い込まれている。これは、どういうことなのか。これは、あれほど企業家のモラルを強調してきたにもかかわらず、木村剛の経済哲学である資本主義の「ルールとモラル」を一番先に破り、踏み外したのが木村剛自身やその仲間たちだつたのではないか、ということだ。ちなみに木村剛は政府の「金融再生プロジェクト」のメンバーを務めていたようだが、それはすべて竹中平蔵との人脈によると言われている。木村自身が、しばしば「金融庁に顔が利く・・・」を売り物にしていたと言われている。この言葉が何を意味するかは明らかだろう。ライブドアの「ニッポン放送株買占め事件」における「時間外取引」をいち早く「合法」と宣言した金融庁の不可解な動きが、木村剛とも無縁ではないと言うことだ。つまり木村剛と竹中平蔵の間にこそ、資本主義の「ルールとモラル」の感覚が欠如していたのではないか、という問題だ。
山崎行太郎  木村剛の『日本資本主義の哲学』に「哲学」なし       -------------------------------------    ちょつと回り道をしたので、ここでふたたび、「マルクスとケインズ」という本来のテーマに戻ることにしよう。そこで「マルクスとケインズ」の問題へ立ち戻る手がかりとして、たまたま先日、「ライブドア堀江社長逮捕」のニュースが流れた日に、浦和の古書店の店頭で、たった100円だったので買った木村剛の『日本資本主義の哲学』という立派すぎるタイトルの「駄本」をとりあげることにしたい。この本を買ったのは、わずか100円だったから買ったというだけで、別に必要があって買ったわけではないが、しかし考えてみると、「ホリエモン騒動」の「影の真犯人」(笑)の一人、あるいは今風に言い換えれば、「ライブドア三兄弟」の一人が木村剛である、と小生は睨んでいるから、絶好のタイミングでの買い物だったということになるかもしれない。つまり、「マルクスとケインズ」を引き合いに出しながら、小泉・竹中路線の経済学的無知と無策を批判することを主テーマとする本稿で、「小泉改革のスポークスマン」の一人としての木村剛を取り上げることは、必ずしもまとはずれではなかろうというわけなのだ。ちなみに私見によると、「ホリエモン騒動」の他の二人の真犯人は、言うまでもなく竹中平蔵と世耕弘成である。さて、竹中と世耕は、昨夏、衆院選挙に「反小泉」の急先鋒・亀井静香への「刺客」として突然、立候補したホリエモンの選挙応援演説で、わざわざ選挙区にまで乗り込んだ上に、竹中にいたっては、「郵政民営化と小さな政府作りは、小泉純一郎とホリエモンと竹中平蔵が、スクラムを組んでやり遂げます…」(?)と、ホリエモンの手を取って叫んだぐらいだから、そのホリエモンや六本木ヒルズ周辺に屯する「若手IT企業家」たちとの癒着振りは、今さら指摘するまでもなく明らかだが、木村剛の場合は、その関係があまり目立たないように思われる。しかし、私は、テレビの経済番組等にしばしば登場して、「経済政策」や「金融政策」に精通しているかのような顔をして、小泉・竹中路線の経済改革を擁護し続けてきた木村剛の、「ホリエモン騒動」に象徴される小泉・竹中路線の日本的経済システムの解体と改革に対する「政治責任」は小さくないと思っている。たとえば、竹中平蔵主導の不良債権処理の過程で、それに連動するかのように「30社リスト」なるものを作り、マスコミを通じて「倒産促進」を煽ったのは木村剛の役割が何であったかを象徴している。では、木村の経済理論、ないしは経済思想なるものはどういうものなのか。すべてを知り尽くしたかのように能弁に語りまくる木村だが、はたして木村はマルクス経済学やケインズ経済学をどう読み、どう理解しているのか。東大経済学部卒で、日銀出身が売り物の木村剛に、はたして語れるほどの、日本資本主義に関する「哲学」があるのか。結論を先に言ってしまえば、木村の『日本資本主義の哲学』は、実に幼稚な書物である。古本屋のオヤジの目に狂いはない。たしかに100円の値打ちしかない本である。と言うのは冗談だが、木村の経済理論と経済思想の本質は、中小企業のオツサンたち向けの「人生論」レベルである。語るべき経済理論や経済思想など何もない。すべては寄せ集めのパッチワーク経済学である。この本は、エンロンとワールドコムの破綻の話から始まる。エンロンとワールドコムの破綻の原因は、木村的に言えば、「企業家のモラル」の問題であるらしい。米国資本主義にも「悪い奴」がたまにはいるというわけだ。当然だろうが、木村は、それを米国資本主義の根本的な欠陥や危機の問題とは認識していない。さて、小泉・竹中路線を追認する木村の「構造改革」理論の眼目は、「金融解体」と「土建屋解体」である。そしてその解体論の思想的裏づけは、ルールとモラルである。何故、日本の金融システムを改革しなければならないのか。何故、不良債権を抱え込んだ土建業は倒産させなければならないのか。改革や解体の後日本経済はどうなるのか。というような問題に対する経済学的、哲学的解明はまつたくない。木村が提示する理論は、企業家のモラルにすぎない。「まじめに頑張れば何でも出来る…」という一種の「根性論」である。つまり木村の構造改革とは、米国資本主義でもグローバルスタンダードでもなく、資本主義の公平なルールにしたがって、「不良企業は退場しろ」というだけである。負債を抱えた倒産寸前の大企業を、政府や銀行がいつまでも保護し支援するところに現代日本資本主義の欠陥があり、そこから企業家のモラルハザードが起き、日本資本主義の健全な機能が麻痺するというわけだ。木村の分析には、「倒産や解体の後の日本経済がどうなるか…」というような本質的な経済学的問題意識はない。たとえば、エンロンとワールドコム問題に関する木村の総括は、こんなものである。「米国資本主義の凄さは、危機に際しての自浄作用にある。資本主義の暴走に対する制御装置が機動的に働くのだ。ところが、日本資本主義にこの作用は見られない。制御装置はないようにも見える。」そして次のように続ける。「そもそも、日本だったら、あれだけ広範な政治家にカネをばら撒いたエンロンは破綻していなかったのではないか。まず間違いなく、アーサー・アンダーセンが崩壊することはなかっただろう。ワールドコムなど官民挙げて先送りして揉み消していたに違いない。少なくとも、内部告発を契機に粉飾が発覚することはなかつたと断言できる。」今から、この木村の「日本資本主義の哲学」の分析を読み直すと、木村の分析が喜劇以外のなにものでもないことがわかる。皮肉にも、木村が内紛の末に実質的に社長(取締役?)を勤める「日本振興銀行」の不祥事(不正融資)が発覚し、これまた木村とも無縁ではないはずの、つまり木村的に言えば「不良企業が退場した」後に登場してきた「新興IT企業」、要するにホリエモンの「ライブドア」が東京地検の強制捜査を受け、「株価操作」や「粉飾決算」で破綻寸前に追い込まれている。これは、どういうことなのか。これは、あれほど企業家のモラルを強調してきたにもかかわらず、木村剛の経済哲学である資本主義の「ルールとモラル」を一番先に破り、踏み外したのが木村剛自身やその仲間たちだつたのではないか、ということだ。ちなみに木村剛は政府の「金融再生プロジェクト」のメンバーを務めていたようだが、それはすべて竹中平蔵との人脈によると言われている。木村自身が、しばしば「金融庁に顔が利く・・・」を売り物にしていたと言われている。この言葉が何を意味するかは明らかだろう。ライブドアの「ニッポン放送株買占め事件」における「時間外取引」をいち早く「合法」と宣言した金融庁の不可解な動きが、木村剛とも無縁ではないと言うことだ。つまり木村剛と竹中平蔵の間にこそ、資本主義の「ルールとモラル」の感覚が欠如していたのではないか、という問題だ。

月曜日, 6月 05, 2006

経済学者には経済がわからない…という逆説-------------------------------------                 ここで、もう一度、現在の日本経済が陥っている「平成不況」の病根とその起源について述べておこう。実はそこにこそフリードマンやルーカスの存在が暗い大きな影を落としているからだ。日本では、バブルの前後から、無根拠ないかがわしい経済学的な風説が日本の経済ジャーナリズムを覆っていた。それは、現在も続いているといっていいかもしれない。その風説とは、これまで日本では、大幅な財政支出がたびたび行われてきたが、その効果はなかった…。公共投資などによる財政支出という無駄使いが財政赤字をもたらしているだけだ…。つまり「財政出動などで、政府支出を増やしてもわが国の経済は活性化しないし、景気回復にもつながらない…」というものだ。これを要約すれば「ケインズ主義経済政策(総需要拡大による有効需要の回復、景気回復…)」の無効宣言にほかならない。このケインズ主義無効宣言の理論的な、心理的な根拠になっていたのがフリードマンであり、ルーカスであったことは言うまでもない。日本では、こういう風説は、経済学者、エコノミスト、官僚、政治家、そして一般市民の経済談義にまで蔓延している。最近では、そういう風説に批判を加える専門家や一般市民も少しずつではあるが増えてきたが、小泉改革の失敗が明瞭になるまでは、そういう批判は学界やジャーナリズムでも封印され抑圧されてきた。場合によっては社会的に抹殺されない危険性すらあった(冤罪で逮捕され、早大教授辞職に追い込まれた植草一秀の場合を想起せよ…。)。私の見るところ、その批判を早くからはじめ、「ケインズ主義」という視点から一貫して主張してきたのは、前にも述べたように丹羽春樹だけである。丹羽氏は、「バブル」もバブル以後の「平成不況」も、ともにこの「反ケインズ主義」的な風説の影響だと理論的に分析し、指摘している。丹羽氏以外の経済学者たちは、ケインズ主義と反ケインズ主義の間を右往左往しているだけだ。経済学者には経済がわからない。では、一般市民までを、「公共投資は止めよ…」「土建屋国家はゴメンだ…」、つまり「反財政出動」「緊縮予算」「小さな政府」という経済思想に洗脳した、この反ケインズ主義的な風説の「論拠」はどこにあったのか。言い換えれば、なぜ、フリードマンやルーカスが、経済思想の主流になったのか。それは、冷戦とその終結が関係する。冷戦時代は、マルクス主義とケインズ主義が、共産主義対資本主義というイデオロギー対立と言う構造の下に対立していた。そこでは、ケインズ主義と反ケインズ主義の対立が顕著になることは少なかった。しかし対立がなかったわけではない。ハイエク、シュンペーターという自由主義者たちはケインズ的な経済政策に常に批判的であった。ハイエク、シュンペーターの自由主義を受け継ぐのがフリードマンやルーカスである。資本主義内部の対立が顕在化するのは、共産主義と資本主義の対立抗争という冷戦にほぼ決着がついたころからである。それまでは、マルクス主義と共産主義という「共通の敵」の前に、「共闘」を強いられていたのである。冷戦後、自由主義の勝利、資本主義の勝利に酔うハイエクやフリードマン、ルーカスのような「新自由主義」者たちは、冷戦勝利をもたらしたものは、自由主義を本質とする「資本主義的な市場原理システム」であるという確信を持つに至った、というわけである。彼等は、ケインズ主義に残る「マルクス主義的な要素」を批判して、「ケインズ主義無効宣言」へと突進する。かつてケインズ理論で理論武装していた日本の経済学者たちも、次第に反ケインズ主義に転向し、ケインズ主義的な「総需要政策」の無効を宣言するようになったのである。しかし、はたして、マルクスとケインズの哲学を、彼等は理解していただろうか。むしろ理論的に後退しているのはハイエクやフリードマンらの方ではないのか。現在の日本経済の停滞と混乱が、それを証明しているはずである。それをいまだに理解できないとすれば、やはり経済学者には経済がわからない、と言うべきだろう。柄谷行人は、言語学者には言語が理解できない、心理学者には心理が理解できない、と言っている。何故か。それは、彼等専門家には専門的知識はあるが、哲学的レベルでの言語や心理に関する議論や思考が欠如しているということである。むろん、日本の経済学者の多くは経済というものを哲学的次元で考えたことはないだろう。

土曜日, 6月 03, 2006

クラウディング・アウト現象の政治経済学-------------------------------------                    フリードマンの反ケインズ主義の理論的な根拠の一つが「恒常所得仮説」にあることは前回書いたが、「ケインズ的総需要拡大政策は無効だ…」という、もう一つの反ケインズ主義の理論的仮説についても、丹羽春喜教授の論文を引用しながら説明しておきたい。私が、ここで、わが国の経済学者で、例外的に「丹羽経済学」にこだわるのは、実は、丹羽春喜教授だけが、「ケインズ的総需要拡大政策は無効だ…」という昨今の学会や経済ジャーナリズムに蔓延している流行の議論を、かなり早くから、理論的に、且つ学説的背景をフォローしながら一貫して議論してきた経済学者だからだ。 最近は、多くの経済学者や経済ジャーナリストが、財政再建重視の構造改革を批判し、財政再建のためにも総需要拡大の景気浮揚こそ先決というような議論を展開しているが、そういう経済学者たちも実は、つい最近までは構造改革派だった人が少なくない。いや、ほとんどの経済学者や経済ジャーナリストがそうであったはずである。したがって、私は、最近、多くの経済学者が主張するようになったケインズ主義的な総需要拡大論なるものも信用していない。それらも、所詮は、看板を塗り替えただけの「流行追随型経済談義」にすぎない。彼らに経済学的な理論的裏づけはない。 問題は、経済学という学問の哲学的背景を無視し、ただ流行を追いまわすだけの「流行追随型経済談義」そのものにあるからだ。最近の日本的経済論議の問題点は、なぜ、そういう「流行追随型経済談義」がいつもマスコミや学会の主流になってしまうのかというところにこそある。そして付け加えれば、もっと重厚・複雑な現実的思考を展開すべき政治家や経済官僚までが、そういう流行の議論にいとも簡単に洗脳され、政策的に煽動されてしまうところにある。ここに日本経済の病理と病根がある。 さて、反ケインズ主義の理論的な根拠となっている「クラウディング・アウト現象」とはなんだろうか。丹羽春喜はこう説明している。≪クラウディング・アウト現象とは、例えばケインズ的な総需要拡大を目指す財政政策のマネタリーな財源を国債発行にもとめた場合に、そのような国債の市中消化によって民間資金が国債購入代金の形で国庫に吸い上げられ、民間資金の不足が生じて市中金利の高騰といった事態となることを指している。≫(『新古典派の内含する破壊的思想とその日本への浸透(二)』) 財政赤字が巨大化している時、総需要拡大政策をとるためには財源が必要であるが、その財源を国債発行に求めるのがもっとも容易で安全な選択である。しかし、そこに経済学的に問題がある、というわけだ。つまり、国債の発行(国民がそれを買い取る…)によって市中の民間資金が国庫に吸収され、結果的に民間資金の不足が発生し、民間資金の不足が市中金利の高騰をもたらし、やがて資金不足から民間投資が冷え込み、景気回復が挫折する、という論理である。マンデルらはさらに、ここから、市中金利の高騰は、その国の通貨の高騰を招き(例えば、円高…)、その国の輸出産業が壊滅的な打撃を受け、景気回復は挫折する、という「マンデル・フレミング効果」理論を展開する。したがって、マンデルらは、ケインズ主義的な「総需要拡大政策」は無効だ、と主張することになる。むろん、この経済学的議論を受売りしているのが、日本の経済学者であり、それに盲目的に追随しているのが経済ジャーナリスト、経済官僚、あるいは政策通と錯覚している勉強不足の若手政治家たちである。 たしかにこの論理展開に間違いはない。たしかに、この「国債発行による民間資金の吸収・不足」から「市中金利の高騰」へ、そしてそれが原因で、「民間投資の冷え込み」「円高による輸出の後退」、したがって「ケインズ的総需要拡大政策は無効だ…」という悲観論的な経済学的論理は成立つ。しかしこの論理を打開する経済学的な方策がないわけではない。「国債の日銀一括買取り」や「買いオペ」などでがそれある。もし、このクラウディング・アウト現象を克服する手立てがあるとすれば、「ケインズ的総需要拡大政策は無効だ…」という議論は成立たなくなるわけだが・…。しかし、そんなことまで考える経済学者や経済ジャーナリストは皆無だ。

木曜日, 6月 01, 2006

数字と数式が隠蔽するルーカス革命の哲学的限界-------------------------------------                 30年前のルーカス批判(革命)は未だに有効なのか。某経済学者によると、アメリカの大学院教育やアカデミズムではいまだに圧倒的に有効らしい。≪アメリカのアカデミズムにおいて主流の立場にある新古典派マクロ経済理論は、基本的に完全雇用状態を前提としているため、著者が問題とするような失業や企業の倒産を扱えないからである。このようなマクロ経済学が主流になったのは、ケインズ理論における「ミクロ的基礎」の欠如のためである。政策上の効果についてもケインズ派は、およそ30年も前の「ルーカス批判」を覆すことができずにいる。そうしたわけで、アメリカの大学院教育では、ケインズ理論は過去の遺物として扱われがちになっているし、教えられない場合すらもある。≫おそらくその原因は、ルーカス批判、ないしはルーカス革命の経済学が、アメリカという風土に合った経済哲学であり、科学主義的な方法論だからである。私の考えでは、ルーカス批判がアカデミズムを制覇した理由は、必ずしもその理論の正当性ではなく、様々な高等数学を援用して数式や数字を駆使するその技法にある。科学主義や数学主義とも言うべきその悪しきスタイルはしばしば学問や科学の名のもとに人間の頭脳を一時的に幻惑する。一種のモダニズムである。たとえば、20世紀の哲学界を一時的に席巻した科学哲学や論理実証主義の台頭の場合にも、「科学」「記号論理学」「数学」を武器に、「ヘーゲル哲学の迷妄」が批判され、罵倒され、嘲笑された。数字や記号を使わない哲学は「過去の遺物」だというわけである。しかし言うまでもなく、哲学は、数学や科学の「基礎」や「前提」を問う学問である。数学や科学を道具として使えば、簡単に批判できるというのは大きな錯覚である。たとえば、近代哲学の父と言われるデカルトはそもそも数学者であったし、カント哲学はニュートン物理学の哲学的基礎付けである。経済学の世界でも、数字や数式の前に哲学や形而上学が忘れられ、隠蔽される。ルーカス批判の哲学的基礎、ないしは哲学的背景(あるいは人間存在論…)という問題である。彼等の議論は、数字や数式を多用するので、門外漢の素人には理解できないかのような錯覚を与える。むろん、錯覚である。そのような場合、多用される数字や数式はしばしば幼稚な哲学や形而上学を隠蔽する小道具にすぎない。その数式や数字を取り去れば意外に単純素朴な哲学的ドグマが露呈してくるはずである。したがって、数学や数式の世界に引き摺りこまれたらおしまいである。無用な数字と数式に幻惑されて、失業と雇用という経済学にとっての根本的な問題は雲散霧消する。それがルーカス経済学であり、アメリカ経済学の主流派である。では、ルーカス革命の実態は如何なるものなのか。その核心にある哲学とは何か。たとえば、ルーカス批判の理論の一つは、「経済学者たちの代替的政策提案に対する評価は、人々の適応的期待とその影響による行動を考える必要がある」という理論である。要約すれば、ルーカス批判のポイントは、「ケインズ的な従来の経済政策においては標準的なマクロ経済モデルに依存するだけで、人々の適応的期待とその影響による行動を考慮していない」ということになる。では、「適応的期待とその影響」とは何か。例えば,「近々インフレが起きる」という期待が形成されると仮定しみる。すると,労働者は、賃金交渉の場で、「少なくともインフレの分だけ給料を上げてくれ」という要求が出すだろう。次に、経営者側は、賃金の上昇は企業にとってはコストの増加につながるから,企業は製品価格を上げようとする。その結果,いろいろな製品の価格が上昇して実際にインフレが生じることになる。このように,期待形成はいろいろな経路を通って実現することが多い。したがって、「政府は、このような期待の効果を十分に考慮した上で政策を行う必要がある」というわけだ。しかし、ケインズ経済学では、この「期待形成とその影響」が無視されている。これが「ルーカス批判」の核心命題である。 むろん、ケインズ経済学でも、「期待」という問題を完全に無視しているわけではない。しかしケインズ経済学が想定している「期待」は、過去の値を予測値として使う「静学的期待」であるのに対して、ルーカスの「期待」は、現在入手できるあらゆる情報を使って予測を行う「合理的期待」である。「ケインズ的静態的期待」と「ルーカス的合理的期待」を区別するところにルーカス批判の核心がある。

水曜日, 5月 31, 2006

ケインジアン・モデルとルーカス批判 -------------------------------------                  ルーカス批判とは何か。ルーカス批判とは、日本の政策当局を含めて、戦後、世界中の多くの国が依拠していたケインジアン・モデルの基本形である「IS?LM分析」に対する新古典派経済学からの理論的な批判である。ルーカス批判を土台にしたマクロ経済学モデルを「合理的期待形成仮説」と言うが、この仮説は、戦後の世界中の経済政策当局で採用されてきたケインジアン・モデルの致命的な欠陥を指摘しただけではなく、アメリカを先頭に各国の政策当局に経済政策そのものの転換を余儀なくさせた。ケインジアン・モデルの無効宣言であり、より具体的に言えばケインズ主義的な総需要拡大政策の放棄であった。その余波が日本にも及び、いわゆる小泉・竹中改革の経済学的な理論背景になったとは言うまでもない。一時、日本でも頻繁に繰り返されていた「構造改革・緊縮財政か…、財政出動・総需要拡大政策か…」という議論は、マスコミを中心とする構造改革ブームと小泉フィーバーによって決着し、すでにそういう議論自体がマスコミや学界から消えている。多くの若手経済学者たちが、小泉・竹中改革を暗黙のうちに支持せざるをえない背景には、アメリカ経済学における「反ケインズ経済学」としての「合理的期待形成仮説」派の爆発的な流行と隆盛と言う現実があることは言うまでもない。その結果、たとえば、小泉・竹中改革を批判するものは、現代の先端の経済学の動向に無知な素人と見做され、理論的に嘲笑されることを覚悟しなければならないということになったのである。若手の経済学者たちが、小泉・竹中改革批判という暴挙を避ける理由である。古典を無視し、古典を読まない二流の若手学者ほど流行に弱く、学派の盛衰に敏感なのである。こういう経済学の状況について、ポール・オルメロッドは『経済学は死んだ』という本でこう書いている。《過去15年ほど、マクロ経済理論で圧倒的に流行したのは、「合理的期待」仮説であった。学界での威力はたいへんなもので、最近では、理論経済学でも応用マクロ経済学でも、その仮説を採用しないと学会誌に記事を載せてもらえないほどだ。》ロバート・ルーカスやトーマス・サージェントらによって確立された「合理的期待形成仮説」とは、次のように定義できる概念である。《経済主体は経済構造に整合的な期待を誤差の分散が最小になるように形成する》単純化して言えば、経済的人間は、経済学的に現状分析や予測を合理的に行い、消費行動などにおいても合理的な決断をするはずだ、という理論仮説である。私は、この理論仮説が、正しいか間違っているかにさほど興味がない。むしろ問題は、こういう仮説が戦後のアメリカ経済学で一斉を風靡したという事実である。言い換えれば、この「合理的期待形成仮説」経済学が、かつて一斉を風靡したケインズ経済学、ケインズ革命と同じような思想的レベルでの「流行」であり、いわゆる「思想革命」に値する革命であったのかどうかということが問題なのである。私は、ケインズ革命やマルクス革命が、20世紀の根本的な知的革命であったの対して、ルーカス等の「経済学革命」はきわめてローカルな局所的な革命に過ぎなかったと思っている。せいぜい、古典経済学やケインズ経済学の「修正主義」「改良主義」程度の経済学革命に過ぎなかった、と。しかし、流行に敏感な多くの若手の経済学の研究者達は、それがローカルで局所的な革命であるにもかかわらず、あたかもケインズ経済学やマルクス経済学を根本から揺るがすような「大革命」であるかのように錯覚したのである。「合理的期待形成仮説」が一斉を風靡した原因と根拠は何処にあるのか。数学的なモデルを駆使する知的ゲーム性によって魅惑と幻想を撒き散らしたことが、一つの要因だろう。若手学者はこの手の知的遊戯と流行に弱いものだ。戦後の哲学の世界でも、数学や記号論理学を駆使する、ラッセルやウィトゲンシュタインに始まる「科学哲学」や「論理実証主義」や「分析哲学」が、アメリカや日本で学界を制覇し、一斉を風靡したことがある。哲学研究者の間で、「カントやヘーゲルやマルクスはもう古い・・・」と言われたものである。それ以後これらの哲学が、アメリカや日本でどうなったか。今更、言うまでもないだろう。私は、「合理的期待形成仮説」はもっとローカルなものだろうと思う。むろん、この学派が一斉を風靡するにいたったのには、ケインズ経済学の支柱の一つであった「フイリップス曲線」の失効・無効化など、それなりの歴史的、現実的根拠もある。しかし、少なくともバブル以後の日本においては、この学派の理論仮説が学界だけでなく、政策当局の経済政策を左右してしまうまでになってしまったということが悲劇の始まりだった。(『

火曜日, 5月 30, 2006

ルーカスの「ルーカス批判」に≪哲学≫ありや・・・-------------------------------------                 ケインズ経済学批判は、ロバート・ルーカスの「ルーカス批判」で決定的な段階を迎える。それ以後、「ケインズ経済学は古い…」「ケインズ的経済政策は無効だ・・・」という言説が、アメリカだけではなく日本でも、無批判的に蔓延することになる。では「合理的期待形成学派」のルーカス教授の「ルーカス批判」とは何なのか。はたしてそれは信頼にたる批判なのか。そもそもフリードマンやルーカス等によるケインズ批判によって誕生したと思われるのが「アメリカ経済学」なるものの実体だが、そのアメリカ経済学とは何なのか。その哲学的背景はどこにあるのか。ところで、「日本に哲学なし・・・」と言われるが、これは、私は、いい意味に解釈している。日本人の思考には、偏狭な体系的思考がない、あるいはそういう体系的思考に対しては常に批判的である、と。言い換えれば、日本にはより深い哲学的思考(反哲学的・・・)があるということである。私は、むしろ「アメリカに哲学なし」と言うべきだろう、と思う。アメリカに伝統や文化や歴史が欠如しているようにアメリカ人の思考には、哲学的思考というものが欠如している。たとえばフロイトの精神分析は、アメリカに移入されると「社会心理学」や「心理療法」になってしまう。そこでは、フロイト的な「哲学」としての人間存在論が消滅し、単なる技術論に堕落している。科学哲学や分析哲学も、あるいはポスト・モダニズムも、アメリカで流行したものだが、しかしアメリカのオリジナルではなく、イギリスやフランス、あるいはドイツからの輸入品である。むろん、マルクス経済学もケインズ経済学も、アメリカにとっては外来文化であり、輸入品である。アメリカでは、批判や改良はなされるが、根本的な理論構築はない。誰でもが使えるように、プラグマチックに変容されるだけである。いい意味でも悪い意味でも哲学的思考、あるいは原理的思考が消滅し、実用的・技術論的思考に転換する。アメリカ経済学が、ケインズ理論の輸入から本格的に始まったことは言うまでもないだろう。その段階では、アメリカ経済学というものは存在しなかった。もし「アメリカ経済学」というものがありうるとすれば、それはケインズ批判以後だろうと私は考える。「ケインズ経済学は無効だ・・・」「ケインズ・モデルはもはや通用しない・・・」という、フリードマンからルーカスに至る反ケインズ経済学理論の登場こそ、アメリカ経済学の誕生を告げるものだったと言っていい。わが国の経済学界や経済ジャーナリズムの言説が、「アメリカ一辺倒」に傾斜し始めたのもこの頃からであり、わが国の実体経済がダッチロールを始めたのもこの頃からである。とすれば、問題がどこにあるかは明らかだろう。それはアメリカ経済学とも言うべき「反ケインズ理論」としての最近の「アメリカ経済学」そのものにあるのだ。したがって、われわれは、哲学なき思考としての「アメリカ経済学」とは何か、その理論は有効なのか、その理論を盲目的に信頼していいのか、と問うべきなのだが、そういう議論が、わが国の「経済論議」にまったくない。ここにこそ、現在の日本経済の病根がある。たとえば、ルーカスの「ルーカス批判」を、専門の経済学者で知らない人はないだろう。しかし、「経済論議」の場にこの問題が登場することはない。誰もがその正当性を認めているからだろうか。いや、実は、構造改革だ、総需要拡大政策だと騒いでいる自称「専門家」たちの多くは、「ルーカス批判」そのものを知らないのではないか。知っていても理解できていないのではないか。マルクス主義が健在であった頃は、学界や論壇やジャーナリズムでは、新しい思想や哲学が流行する度に、たとえば「マルクス主義か実存主義か」「マルクス主義か構造主義か」「マルクス主義か分析哲学か」というような類の議論が絶えなかった。私は、それは健全なことだったと思う。今の日本に欠如しているのはそういう議論なのだ。私が、マルクス主義を逆説的に評価するのはそこに根拠がある。マルクス主義のおかげで、われわれは「哲学的」にならざるをえなかったのである。したがって、今、「ルーカス批判」の哲学的背景は何なのか、「ルーカス批判」は哲学的に有効なのか、と問うことが必要なのだ。
ルーカス方程式と合理的期待仮設






平河総研

受信トレイ
ルーカス方程式と「合理的期待仮設」       山崎行太郎
「ルーカス総供給方程式」によると、総需要(有効需要支出のマクロ的
総額)がいくら増えても実質的には生産は伸びず経済成長も雇用拡大も
起こらない・・・ということになり、これがケインズ経済学的な「総需
要拡大による不況の克服、あるいは景気回復・経済成長」という論理を
否定し排斥する論拠となっている。
(現実の生産水準)ー(自然失業率に対応した生産水準)=a・(《実際の
物価水準》ー《期待【予測】物価水準》・・・・・・(「ルーカス型総
供給方程式」)
今更、言うまでもなく、自民党小泉執行部は、このルーカス的なケイン
ズ経済学否定論という経済思想(新古典派、新自由主義)に凝り固まって
いる。したがって、小泉執行部は、どのような経済学者たちからの進言
や提案も、この理論に反するものはすべて無視し続けている。では、こ
の奇妙なルーカス方程式は恒常的に正しいと言えるのか。正しいとすれ
ばその根拠は何か。
実は、この方程式を成り立たせるためには、いくつかの仮説が前提され
ていなければならない。たとえばその一つが、いわゆる人々の「合理的
な期待仮説」である。つまり、人々の物価に関する「合理的な期待(卵ェ)」が常に的中しているはずだという仮説である。そんなはずがな
い、と言ってもはじまらない。少なくとも、それを前提的に肯定すると
ころにこのルーカス率いる「合理的期待形成論学派」の経済学的な本質
と新しさがあるからだ。
では、人々の現実の物価水準に関する「合理的な期待(予想)」が常に的
中するとすれば、どういう経済学的な現象がおこるのだろうか。たとえ
ば労働の需給関係(労働供給曲線)はどうなるだろうか。要するに失業
率、あるいは雇用問題はどうなるだろうか。
伝統的な経済学的常識では、総需要が増大すれば生産活動が拡大し、労
働需要もそれにつれて増えていき、その結果として雇用率は上昇してい
くはずである。つまり失業率の低下という現象が起こるはずである。し
かし、「ルーカス型総供給方程式」を前提すると、そうはならない。
総需要が拡大して生産活動が活発化(企業資本設備の稼働率が上昇)して
も、労働需要は伸びない。つまり失業率は低下しない。なぜか。実は、
そこで、労働者たちや経営者たちの「合理的な期待(予測)」という問題
が発生する。結論を言えば、生産拡大も雇用の増大も、物価上昇を予測
した上での「賃金」や「価格」の上昇によって、吸収されてしまうとい
うものだ。
労働者達は、物価上昇を見込んで(合理的期待?)、それに見合う「賃上
げ」を要求し、経営者側は、労働者に支払うべき賃金の上昇を見込んで
(合理的期待?)、それに見合う生産物の「値上げ」を要求するからであ
る。要するに、総需要の増大による生産拡大も労働需要の拡大も、賃上
げや価格上昇によって相殺されていくということである。

月曜日, 5月 29, 2006

貨幣形態が交換の神秘(価値形態)を覆い隠す。 
 小泉・竹中路線の経済・運営に関しては理論的にも実践的にも、非難・批判が、巷に横行している。しかし竹中や本間等の学者・エコノミストグループ、あるいは宮内、奥田等の財界の小泉支援グループを初めとする小泉政権の経済ブレーンは、それらの批判に対してビクともしないように見える。
彼らは、膨大な倒産と自殺者を出している、この平成の大不況【小泉大不況】を目前にしているにもかかわらず、そういう巷の意見に誠実に耳を傾けようとする気配さえまったく見せない。為政者としての誠意と畏怖というものが、まったく感じられない。かつてはそうではなかった。なぜだろうか。おそらく、その原因は巷の非難や批判そのものが素人的だからである。言い換えれば、批判・非難するグループも、竹中、本間、あるいは宮内、奥田らと同じレベルでしか議論しかしていないからである。つまり政策的次元の議論しかしていないからである。
マルクス経済学が経済学の主流であった時代には、マルクス主義経済学からの批判が正しいか間違っているかというレベルにおいてではなく、マルクス主義からの理論的原理的な批判に、政権担当者は、何らかの形で答えなければならないという社会的な義務を課せられていた。その結果、官僚や政治家のような政権担当者たちも、理論的原理的なレベルでの議論をせざるを得なかったのである。議論・応戦しなくても、少なくとも耳を傾けざるをえなかったのである。しかるに戦後の日本経済政策や経済運営が、今よりもはるかに健全であった根拠はそこにあると言わなければならない。問題は「正解」に達することではない。「問い」や「批判」の前で立ち止まることである。
マルクスやケインズに私が固執するのはそこにおいてである。それは、トーマス・クーンの言う「通常科学」のレベルでの議論である。つまり「科学革命」的レベルでの議論としての原理論が、小泉・竹中の側にも、それを非難批判する側にもないのである。私が、マルクスとケインズを同列に論じるのは、通常科学的レベルではなく、科学革命的レベルで、経済という問題、交換という問題、貨幣という問題を考えてみたいからである。交換の秘密や、貨幣の神秘、というような問題は、日常の経済生活や経済政策には必ずしも直結していない。しかし、それは、われわれが、日常という幻想の中で生きているからである。前にも書いたように、交換の秘密や貨幣の神秘は戦争や革命の時、つまり「科学革命」の時にしか露呈しない。
しかるにマルクスとケインズはそういうレベルで経済や経済学について思考している。たとえば、貨幣について、マルクスは、こう書いている。

>>《価値形態、その完成した姿である貨幣形態は、はなはだ無内容かつ単純である。にもかかわらず人間の頭脳は、二千年以上も前からこれを解明しようとつとめてきてはたさず、しかも他方、これよりはるかに内容ゆたかで複雑な形態の分析には、少なくともほぼ成功している。なぜだろう? 成体は、体細胞よりも研究しやすいからである。しかも、経済的形態の分析において、顕微鏡も、化学試薬も、役に立たない。抽象力が、両者にかわらねばならない。》<<

普段、われわれは貨幣について考えない。考える必要がないからである。そしてその貨幣が、交換や貨幣の神秘と秘密を覆い隠すのである。むろん、われわれは、貨幣(紙幣)が物としては「紙くず」であることを知っている。しかし、貨幣の神秘や秘密を知っているわけではない。貨幣という尺度を通して商品や交換や経済を考える。貨幣そのものについては考えない。しかしそこから考えることが原理的であり、本質的なのである。貨幣という存在の深遠の前で立ち止まり、それについて考えること。マルクスやケインズはそうしたのである。問題は「正解」に達することではない。「問い」の前に立ち止まることである。竹中や本間が巷の意見を無視黙殺するのは、彼らがそういうレベルの問題について考えたことがないからである。
ケインズの「乗数効果」論を否定するフリードマンの「恒常所得仮説」理論 -------------------------------------                    ケインズ主義的な総需要拡大論では景気は回復しない、というのが小泉・竹中派の「構造改革なくして成長なし」の理論的前提である。彼らは需要と言う問題を徹底的に無視し、排除し続けている。それがきわめて政治的な、党派的な、派閥的な次元の問題であることは言うまでもないが、では、小泉はともかくとして竹中は、なぜ、そういう固い信念をいつまでも固持し続けていられるのか。すでに竹中理論が破綻していることは実体経済の悲惨な現状が証明しているにもかかわらず、それを認めようとしないどころか、ますます意固地になって、反ケインズ的な政策に固執するのは、何故か。それは、一言で言うならば、竹中が、アメリカの新古典派の理論に依拠し、それを盲目的に信奉しているからだろう。現実の経済が破綻しても自分が信奉している経済理論に間違いはない、なぜならそれはアメリカ経済学の主流派だからだ、間違っているのは理論そのものではない。景気がなかなか回復しないのも、政策と実行のプロセスで政治家やジャーナリズムなどが不当に介入し、政策を歪曲させたた結果にすぎない、と思っているはずだ。それ故に、政策の現場からリタイアすることが出来ないのだ。政策の現場から離れた途端に、竹中的な理論の破綻が明白になるからだ。おそらく、日本の景気は、小泉・竹中が、政策の現場から離れさえすれば急速度に回復するはずである。それに急ブレーキをかけて、逆噴射状態になっいているのが現在の日本経済なのである。しかし、こういうことをいくら言っても始まらないだろう。宗教問答的な水掛け論に終わるだけだろう。問題は理論そのものである。竹中が依拠している理論は何であり、その理論の何処が間違っているかを理論的に解明し説明することである。私は、この問題を追求している日本の経済学者を一人しか知らない。その一人が丹羽春喜である。丹羽によると、アメリカ新古典派とは、フリードマンやルーカスに代表される、70、80年代以降の経済理論である。この学派は、ケインズを批判し否定することによって新しい経済学として誕生したという歴史的経緯がある。それ故に、反ケインズ主義は理論的支柱を形成している。その反ケインズ主義的な理論の中でも、特にフリードマンの「恒常所得仮説」理論が重要な意味を持っている。なぜなら、ケインズ主義の理論的支柱である「乗数効果」論を否定する理論だからである。《消費支出がなされるのは家計の「恒常的な所得」からのみであるとして、通例を上回るような賃金上昇やボーナス、座家業手当て、減税、等等、の「所得変動」からは消費支出がまったく行われないものとするという極端な状況を仮定して、それに基づいて、ケインズ的財政政策で「所得変動」が増やされた場合の「乗数効果」を非常に低く見積もるような考え方を示唆してきた。》(丹羽春喜『新古典派の内含する破壊的思想とその日本への浸透』) これが、フリードマンのケインズ批判の理論的根拠となる「恒常所得仮説」理論である。つまり、こういうことだ。「臨時収入からは支出や消費がまったくなされず、したがって当然のことに乗数効果も発生しない」というわけである。この理論的前提の下に、わが国でも、とりわけテレビや新聞を中心とした経済ジャーナリズムにおいて、いくら公共投資などの総需要を拡大しても景気回復にとっては無益だという言論が多数派を形成し、総需要政策という税金の無駄遣いをやめて、「潜在成長率」を高めるための「構造改革」に専念すべきだという「奇妙な正論」が一般化することになったのである。 このフリードマンの「恒常所得仮説」こそが、反ケインズ主義の理論的支柱の一つであり、竹中らが信奉している理論的前提なのである。

火曜日, 5月 23, 2006

■2005/07/26 (火) 日本の政治家に軍事的視点が欠けている
私が航空自衛隊元空将の軍事評論家佐藤氏を高く評価するのは日本には戦後、メデイアを含み、軍事的な観点から切り込んで、政治を論じることをタブー視し、そのためにかなり国の路線を誤ったと見ているから。氏のブログの謳い文句は軍事を語らずして、日本を語るなかれ!!http://d.hatena.ne.jp/satoumamoruドンぴしゃり!郵政民営化問題も軍事的視点から方程式を解けば、自ずとその回答は出てくるはず。残念なことに国会議員の多くは軍隊体験を持つ人が少ないものだから今回のように海外から見ると、実に見苦しい滑稽な事態発生となる。何よりも彼ら議員先生方、軍隊精神が欠けているのではないかな?あの生と死の極地にあって、国のために戦う、その精神を持ち合わせていれば、国家に対して犠牲になることも厭わないし自ずと自分の限界を知る。犠牲的精神といってもいいのですが、それがないものだからつい私利私欲という狭量な視点で郵政民営化法案一つにしても政局に持ち込んで日本の政治を混乱させてしまう。本来なら、拉致問題こそ重要問題であるはずなのに。本末転倒とはこのことか。極論だと叱責を受けるかもしれないけど、少なくとも国民の上に立つ議員先生方、3ヶ月位自衛隊入隊体験を持つ必要がありますね。英国のハリー王子も、目下軍事教練を受けていますよ。そこでしだ氏から>8月21日の佐藤氏の講演会でお会いできれば幸いで御座います。日本では、草莽会が決起いたし、東京大行進が行われました。まだまだ微風ですが風は吹き始めてきたと実感できる喜ばしい会の発足でございます。御支援頂けましたら幸いで御座います。今週の「週刊新潮」のクラインさんの記事、拝読させて頂きました。ドイツを例に簡単明瞭に味のあるコメントで御座いました。多くの人を覚醒させる為には、クラインさんの様な表現力で訴える事が必要であると思いました。郵政は大きな問題であり政局を揺るがす事となりかねない為、拉致問題を取り組む者には、足かせとなっている気が致します。選挙が近く感じられると一枚岩といかなくなるのが現実なのでしょうか?拉致は政党、思想信条問わず挑まねば解決しない問題と考えておるのですが難しいですね。しかしながら我々は、日本再生の為にも、一番に拉致問題の全面解決を行い、日本人としての気概を見せなければなりませんね<
■2005/07/25 (月) 軍事評論家佐藤氏の講演、駆けつけようかな(5)
今日は、お知らせやお願い事ばかりでもうしわけありませんが。☆平河総合戦略研究所の奥山氏より 講演会 ご案内です。桜チャンネルhttp://www.ch-sakura.jpでおなじみのメッチャ面白い人物航空自衛隊出身元空将佐藤氏の講演です。(氏とは一度チャンネル桜でご一緒しました)私も、ちょうどこのころ日本に滞在しており、前日20日は岩手へ講演に参りますが、21日のこの佐藤氏講演に何とかぎりぎり間に合うように、岩手から駆けつけようかなと思っています。奥山氏からは19日、インド大使との顔合わせのお誘いのお声が掛かっているのですが、こちらはどうも都合がつかないようなので・・・・さてその軍事評論家佐藤氏のご講演ですが>日時 8月21日(日曜日) 午後1時半より4時まで場所 学士会館(神田錦町) http://www.gakushikaikan.co.jp/ 203号室会費 一般 3000円 学生 2000円 平河総研特別会員 1000円 講師 佐藤守  平河総研専務理事 元空将ブログ http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/テーマ 台湾危機に直面する南西方面の実態…沖縄勤務の体験から定員 80名 申し込み先着順(info@hirakawa-i.org 宛)☆平河総合戦略研究所Hirakawa Institute代表理事所長 奥山篤信